火曜日, 5月 08, 2007

テレサ・テン《鄧麗君》

【本名】鄧麗筠 【出生地】雲林縣褒忠郷 【誕生日】1953年1月29日

「今夜かしら明日かしら」 ポリドールレコード DR1835(1974年3月)日本デビュー盤

  彼女は1953年雲林で生まれたが、6歳の時に台北に引っ越している。幼いころから歌の才能は抜群で、10歳の時に中華電台というラジオ局主催ののど自慢番組で優勝。天才少女との評判が広まった。 1967年9月、14歳のときに宇宙レコードより「鄧麗君之歌第一集」にてレコードデビュー。初期のころはほかの歌手のカバー曲を数多く歌っていたが、ジャンルはそれこそ多様。しかもそれを難なく歌いこなしている。中華圏で急速に人気が拡大して行った。そしてついに1974年3月、シングル「今夜かしら明日かしら」で日本デビュー。アイドル・ポップス調の曲だったが、あまりパッとしなかったので、次はソフト演歌路線に修正。この「空港」があたり、日本レコード大賞新人賞などを獲得した。 1979年には偽造旅券事件などもあったが、1980年代は彼女にとって最も輝いていた時代だった。 1983年にはトーラスレコードに移籍し、1984年「つぐない」、1985年「愛人」、1986年「時の流れに身をまかせ」、1987年「別れの予感」等、今でもカラオケなどで人気のある歌を次々とヒットさせていった。しかし1995年5月、タイのチェンマイでさびしく病死した。

土曜日, 2月 24, 2007

1970年代の台湾の歌姫 - シャーリー・シャウ 蕭孋珠

「潮路」 日本コロムビア(株) AA-52(1974年6月)日本デビュー盤

「さよなら初恋」日本コロムビア(株) AA-94(1974年12月)

  中国民族音楽の好きな父の影響で、彼女も幼いころから音楽に親しむ。また歌も得意だった。学生時代の夏休みに歌林レコードの歌のコンテストに応募し、優勝したことにより、歌手の道を歩むことになる。ちょうどそのころ、日本のレコード会社が台湾で新人を発掘していた。彼女と李金鈴の二人が目にとまり、日本で歌手デビューすることになった。蕭孋珠のデビュー曲「潮路」は、残念ながらそれほど陽の目を見なかったが、その年に、台湾で出したセルフカバー曲「真情」が大ヒットとなった。彼女の顔立ちはやや赤くて、丸いので、レコード会社は彼女を「蕃茄姑娘(トマト娘)」として売り出した。日本では、努力のかいもむなしく、1年で撤退することになったが、台湾では、1970年代、1980年代に「一簾幽夢」、「就從今夜起」、「踩在夕陽裡」、「迎著風的女孩」など、 30枚のアルバムをリリースする人気歌手となった。しかし1990年10月、彼女は12年間交際していた男性とシンガポールで結婚。現地に定住し、芸能界を完全に引退した。